オンランシネマ

アースクエイクバード

リドリー・スコット印の“日本ノワール”は、アリシア・ヴィキャンデルと佐久間良子のムダづかい

Earthquake Bird
2018年 イギリス、アメリカ、日本 カラー スコープ 108分 Scott Free/Netflix Netflixで配信
監督/脚本:ウォッシュ・ウェストモアランド 原作:スザンナ・ジョーンズ
出演:アリシア・ヴィキャンデル、ライリー・キーオ、小林直己、佐久間良子、ジャック・ハストン、祐真キキ

 日本を舞台にした外国映画を観るとき、内容はともかく面白くてしょうがないことが多い。面白い=interestingにはいろいろな意味がある。もじどおりに「面白い」ものから「興味深い」、そして「間違っていて面白い」…さらには「あまりにひどくて面白い」まで。
 グローバル化やネット社会が進んで、外国の情報が豊かになると、以前のような「間違っていて面白い」外国映画は激減してしまった。外見的な面では、ほとんどが「そこそこ」「わるくない」ところまでいっているし、DVDで旧い映画を研究しまくっている監督たちは、「そこそこ」「わるくない」作品を仕上げることができる。
 そうなると、問題は、いったい何を映画で描きたかったのか、わざわざ日本でロケして何を言いたかったのかということだろう。

 『アースクエイクバード』は、いま世界でピカ一といっていいスウェーデン出身の女優アリシア・ヴィキャンデルが主演する。小柄な彼女の透き通った少女のような美しさは、遠目に見ると、ほとんど日本人のようだ。そして、彼女が演じているルーシーは、少女時代のトラウマを逃れるために日本語を習って東京へやってきて翻訳会社に就職していると徐々に明かされる。口数が少なく、性格は地味で控えめ。まるで日本人のような彼女が偶然出会ったカメラマンと恋をし、アメリカ娘リリーとの三角関係から殺人事件へと巻き込まれる……どころか、巻き込まれたところから映画は始まる。今どき珍しいほど目の周りのクマメイクを厚くして登場するアリシア。彼女の周囲にはつねに“死”がつきまとっていて、彼女はトラウマから妄想や悪夢をみるという役柄だ。それにしても、常に顔色の悪い彼女を観ていると、なんだか高級生ケーキを火鉢であぶって出されているように感じる。

 さて、三角関係が盛り上がるのは、3人で出かける佐渡島だ。スウェーデン娘が「金山」、アメリカ娘が(北欧風の形式の)尖閣湾へ行きたいと発言するあたりですでにミステリアスだが、小さな鳥居をくぐって登る海辺の小さな山(素敵なロケーション)で、ルーシーは突然嘔吐して倒れる……。てっきり、妊娠、あるいはルーシーは島のシャーマンの娘の生まれ変わりだった……なんて展開か!? と期待していると、何も起こらない。たんに、恋人とアメリカ娘の関係をどんどん怪しむようになるだけだ……嫉妬かよ。

 とにかく殺人ミステリー部分は、とてつもない。警察に拘留尋問されていたルーシーが、釈放されてカメラマンの家へ行くとそこには“証拠写真”が「いつものように」ちゃんと書類ケースに整理されてしまわれているのだ。警察は男を探していると言っていたが、いったい何をしていたのだろう。そもそも、プリントした写真を、書類ケースで分類(写真はすべて裸のままで二つ折りファイルに挟まっている)しているのが解せない。そんなカメラマンが世界にいるのだろうか。まあ、どうみても、せいぜいプロ野球の2軍でうだつがあがらない一塁手ぐらいにしか見えない男が、そば屋で働きながら趣味で写真を撮っているというのだ。妙に英語がうまい以外、この男には写真家という“アーティスト”感は皆無。まあ、連続殺人犯なら納得できなくもないが、それにしては外国女が魅かれる魅力が薄い。勤めているそば屋も、オーセンティックではなく、まるでゴールデン街に学生たちが建てた居酒屋のようだし、ルーシー自身に最初から「麺つゆがしょっぱい」と喝破されている始末。
 
 物語は1980年代の日本ということで、ファッションや自動車などかなり気を使って装飾されている。駅のホームにいる客までどことなく80年代風になってるのはなかなかだ。そして、一番の見どころは、ヒロインは勤めている笹川翻訳事務所でリドリー・スコットの『ブラック・レイン』の字幕を日本語で書き写しているという設定。いったい何の仕事なのだろうか。翻訳ではなく日本語の練習? 実はこの映画はリドリー・スコットのプロダクション「スコット・フリー」の作品であり、『ブラック・レイン』はちょうどこの話の設定と同じころにリドリーが大阪で撮った映画だ(クライマックスは日本で撮れずにカリフォルニアにセットを作った)。さらに、リドリーはこの映画の「プロデューサー」としてクレジットされている。ふつうだったら「エグゼクティブ・プロデューサー」で済ませそうなものを……リドリー、ちゃんと仕事したんだろうか。それとも、もしかするとこれはリドリーにとって『ブラック・レイン』と対になる作品なのか……。それは、もしかして、日本はやくざだけじゃなくて「そば屋」や「カメラマン」もヤバいぞ、という“日本ノワール”感の表明なのだろうか。

 80年代に日本に住んでいたらしいイギリス人女性による原作は、おそらくイギリス人が主人公なのだろうが、アリシア・ヴィキャンデル主演ということで、ヒロインはスウェーデン人という設定になっている。80年代の日本人がどう考えていたかは微妙だが、少なくともその頃の日本の男性のほとんどは「スウェーデン」と聞いただけで下半身が色めきだったはずである。そういった“日本の常識”はまったくく気にかけられていない。それどころか、そば屋カメラマンは、服を脱ごうとするヒロインを制止するのだ。なにそれ。

 結局のところ、トンデモ・ミステリー原作をもとに真面目一本やりで(似非)ノワールを目指してしまった監督だが、リドリーの勧めもあってか、なかなか「興味深い」スタッフをそろえてはいる。カメラは韓国映画『オールド・ボーイ』からハリウッドへ進出したチョン・ジョンフン、美術はタランティーノやジョン・ウーも頼んだ種田陽平だ。ところが、この一見豪華なアジアン・ハイブリッド・スタッフが、おかしな方向へ向かっているとしか思えない。撮影は、日本よりも湿った感触でまるで韓国の犯罪映画のようだ。もともと“無国籍”で売りだした種田の美術はすっかり「80年代」を抜け出してしまって、大正ロマンへ突入している始末。そして、仕舞屋(和風家屋)に集まって着物姿でシューベルトを奏でる弦楽カルテット(ルーシーはコントラバス)のひとり山本夫人を演じるのは、なんと佐久間良子! しかも、彼女はびっくりするような展開で姿を消すことになる。何だこれは。金田一ものなら、必ずや真犯人役に納まるはずの大女優をわざわざ起用して、こんな役で使うとは失礼も甚だしい。というか、全くの無駄遣いだ。彼女の存在だけでミステリー感が何倍にもあがっただろうに。まったく、残念。キャスティングの奈良橋陽子の努力も水の泡というやつか。
 というか、この一見日本のことわかってます的な監督の演出は、ほとんどヒッチコック方面を眺めるばかりで、細やかなセンスが欠けている。
 混浴温泉に入る場面があるのだが、一切恥ずかしがりもしない女たちが、いきなり全裸になって湯船に飛び込む。「ちゃんとかけ湯をしてから風呂に入れ!」と伝える日本人スタッフはいなかったのだろうか。今どき銭湯にだって書いてあるぞ。

 救いなのは、もちろんアリシア・ヴィキャンデルの存在だ。うまくはないが、納得できる日本語セリフはさすがオスカー女優だし、彼女の魅力だけで映画は水準以上にまで浮上できている。そして、いかにもアメリカ娘なリリー役のライリー・キーオ。エルヴィス・プレスリーの孫が日本でカラオケ歌っている場面は感慨深い。
 またライブハウスの場面でクリスタル・ケイが歌うオノ・ヨーコの「ウォーキング・オン・シン・アイス」は、この手の音楽場面としては出色の出来だろう。今度メジャーデビューが決まった女性グループという設定なのだが、こりゃ世界レベルだろと思わせる。ただ、この選曲はジョン・レノンが最後に作業していた夫婦の曲として有名なのだが、そこに何か意味はあったのだろうか……。
 ちなみに、音楽担当者3人のうちの一人は『ジョアンナ』のマイケル・サーンの娘だ、と思う。

 結局のところ、監督がわざわざ日本、しかも80年代の設定にして描きたかったのは、トラウマは、時としてたんなる勘違いかもしれないよ、という、ある意味バカみたいな結論だったようだ。だったら、80年代も、日本も、別に関係ないじゃん。どうせならSFにすればよかったのに、と思わざるを得ない。

 忘れていたが、題名は、地震の後に鳥の鳴き声が聴こえるという逸話から命名されているらしい。初対面のカメラマン男は地震が来ても顔色一つ変えず、2人でスチール戸棚の中に避難する……なんだ、それは。本当にそんな人が80年代の日本にいたのだろうか。思わせぶりな“地震鳥”はその後、なんら映画の中で活躍することなく飛び立っていったようだ。

 字幕にひとこと。「カメラはオリンパスM-1、ズイコーレンズで、とても速いんだ(ファースト)」というセリフがあるが、レンズが「速い」のは、日本では一般に「明るい」とか「大口径」の意味だと思うんだけど…。

by 無用ノ介